ベテランの受付が辞めた翌月、業者との約束が誰にも分からなくなった。滅菌機の点検がいつだったか、記録が出てこない。── 引き継ぎがうまくいかなかった医院で、実際に起きていることです。
結論から書きます。引き継ぎが失敗する医院には共通点があります。引き継ぎを「退職が決まってから始める作業」だと思っていることです。辞めると分かってから始めても、間に合いません。
この記事では、なぜ間に合わないのかを法律の期間から確認し、引き継がれないものの正体を並べ、辞める前にできることを書きます。
共通点は3つ
1. 仕事が「人の名前」で呼ばれている
「発注は◯◯さん」「レセプトは△△さん」。この呼び方をしている医院では、その人が辞めた瞬間に、その仕事の輪郭ごと消えます。仕事に名前が付いていないので、何を引き継ぐのかを書き出せません。
2. 手順が本人の頭かメモ帳にある
マニュアルがないわけではなく、あるけれど更新されていない。実際に動いている手順は本人の手元のメモにあり、それは退職と一緒に持って帰られます。
3. 引き継ぎが最終出勤日の直前に始まる
退職の話が出てから、残っている有給を消化し、最終出勤日の数日前に「引き継ぎ書を書いておいて」と頼む。ここまで来ると、書かれるのは手順ではなくファイルの置き場所のリストだけになります。
引き継ぎに使える期間は、思っているより短い
「辞めます」から最終出勤までに残された時間
民法627条1項。申し入れから2週間で退職できます
残っている有給を消化すると、出勤日はさらに減ります
実際に机を並べて教えられるのは、数日しかないこともあります
就業規則に「1か月前」と書いてあっても、民法との関係は見解が分かれます。
出典:民法 第627条第1項(e-Gov法令検索)
期間の定めのない雇用について、民法第627条第1項は、当事者はいつでも解約の申入れができ、雇用は申入れの日から2週間を経過することによって終了すると定めています。
就業規則で「退職の申出は1か月前まで」と定めている医院は多いのですが、その定めと民法の2週間との関係については見解が分かれます。ここは断定できません。
言えるのは、最悪の場合、申出から2週間で人がいなくなる前提で医院を組んでおく必要があるということです。そのうえ、残っている年次有給休暇を消化すれば、出勤日はさらに減ります。引き継ぎを退職後に持ち越すことはできません。
引き継がれないものリスト
診療の手順は、隣で見ていれば伝わります。引き継がれないのは、診療の外にあって、誰も見ていない仕事です。
- 業者との口約束。「この品目だけ特別価格」「年間これだけ買う代わりに」。書面がないと、担当者が替わった時点で消えます。
- IDとパスワード、権限。レセコン、電子カルテ、Web発注、ネットバンキング、予約システム、SNSアカウント。退職日に止めるものの一覧がない医院がほとんどです。
- 保守点検の予定。医療法施行規則第1条の11第2項は、病院・診療所の管理者に対し、医薬品・医療機器の安全管理のための体制を確保することを求めています。責任者を置き、保守点検を含む安全確保の仕組みを回すのは個人の記憶ではなく医院の体制です。
- 記録の保存期限。歯科医師法第23条第2項により、診療録は5年間の保存が必要です(診療所に勤務する歯科医師の診療ぶんは、その診療所の管理者が保存します)。保険医療機関としては、療養の給付の担当に関する帳簿・書類その他の記録を完結の日から3年間、診療録は5年間保存することが定められています(保険医療機関及び保険医療養担当規則 第9条)。
- 労働関係の書類。労働者名簿、賃金台帳、雇入れ・解雇・賃金その他労働関係に関する重要な書類は5年間の保存が必要ですが、労働基準法附則第143条により当分の間3年間とされています(労働基準法第109条)。
出典(いずれもe-Gov法令検索):医療法施行規則 第1条の11/歯科医師法 第23条/保険医療機関及び保険医療養担当規則 第9条/労働基準法 第109条・附則第143条
【訂正】令和8年9月9日。診療録の保存期間の根拠として、歯科医師法ではなく医師法の条文を挙げていました。歯科医院に適用されるのは歯科医師法第23条第2項です。保存期間が5年であることに変わりはありません。お詫びして訂正します。
書類ごとの保存年数と数え始める日は、歯科医院のカルテ保存期間は5年 ── 診療録・帳簿・技工指示書、何を何年 置くかで一覧にしました。
並べてみると分かります。引き継がれないものは、期限が長く、頻度が低い仕事に集中しています。毎日やる仕事は誰かが見ているので伝わりますが、年1回・3年に1回の仕事は、担当者しか知りません。
辞める前にできる3つ
1. 仕事の棚卸しを、年1回やる
誰が辞めるかに関係なく、年に1回、事務の仕事を全部書き出します。項目は「仕事の名前/やる人/頻度/期限」の4列だけ。凝った様式は要りません。この表があれば、退職の話が出た日に「この人が持っている仕事」がすぐ分かります。
2. 手順は3行で書く
立派なマニュアルは作られないし、更新されません。書くのは3行です。
- いつ(毎月の締め日/毎年4月)
- どこを見るか(このフォルダ/この画面/この業者に電話)
- 誰に渡すか(院長の承認/そのまま提出)
3行なら、担当者が自分で書けます。細かい操作は、その3行があれば辿り着けます。
3. 「退職日に止めるもの」の一覧を先に作る
アカウント名、サービス名、権限の範囲。作るのは1枚です。新しいサービスを契約したその日に1行足すルールにしておけば、退職のたびに慌てずに済みます。これはセキュリティの話でもあります。
それでも残る面倒
- 棚卸しの表が更新されない。年1回作っても、その後の変更が反映されなければ、翌年には嘘の表になります。
- 「誰がやったか」が残らない。紙とExcelでは、いつ誰がその仕事をしたかの履歴が残りません。抜けに気づくのは、抜けたあとです。
- 期限のあるものを思い出す仕掛けがない。年1回の仕事は、思い出す仕掛けがなければ必ず飛びます。
まとめ
- 引き継ぎが失敗するのは、退職が決まってから始めるから。民法上は申入れから2週間で雇用が終わり、有給消化を挟めば出勤日はさらに減る。
- 引き継がれないのは、頻度が低くて期限が長い仕事。業者との口約束、権限、保守点検、記録の保存期限。
- 年1回の棚卸し(仕事の名前・やる人・頻度・期限の4列)、3行の手順、退職日に止めるものの一覧。この3つを辞める前に作る。
- 難しいのは作ることではなく、更新され続ける形にすること。
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事務長AIなら、ここが変わります
「タスク」「今日の入力」「マニュアル」「会議」を同じ場所に置けます。仕事に対応担当者と対応期限が付くので、棚卸しの表を別に作らなくて済みます。パソコン・タブレット・ソフトは「院内の機器・PC」に、置き場所・主に使う人・OSのサポート期限・ウイルス対策まで残せます。リースや保守の契約、届出が要る装置は「機器・契約の台帳」で、解約を申し出る期限を入れると「タスク」の期限に自動で出ます。アカウント名や権限を記録する欄は、いまはありません。「雇用契約書」と「評価・面談」の記録も同じ場所にまとまります。

